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時の流れと川の流れは同じなのでしょうか?

そんな疑問がわいてくる。
そもそもの始まりはこうだ。

「時間はどちらの方向に流れている?」

過去から現在、そして未来へ?それとも
未来から現在、そして過去へ?

自分を、流れる川に固定された水車と考えれば
時は未来から流れてきて、僕の中を通過して、過去へと流れていく。

自分を、流れる川にぷかぷか浮かぶ桃と考えれば
僕は時の流れに乗りながら、過去から未来へ時とともに流れていく。

いずれの場合も、川の上流、下流のどちらを未来で
どちらを過去と考えるかで、真逆になりうる。

そんなことを考えて流れ着くところが、
最初の疑問なんです。

時の流れと川の流れは
同じなのでしょうか?

------

ミヒャエル・エンデの「モモ」では
12章で時間についてのなぞなぞが出る。そして

「未来が過去に変わるからこそ、現在っていうものがあるんだ!」
という認識が、モモの気づきとして示されている。

これは「未来→現在→過去」という
方向ということでしょうねきっと。

------

そもそもこんなことを考えているのは
苫米地英人の影響です。

認識の果たす役割は
大きい。
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「生きる」とはどういうことか。「死ぬ」とはどういうことか。

僕の現在の解釈を以下に述べる。

僕らは自分の意思で
この世に生まれてきたわけではない。

僕らは誰でも「生きなさい」と言われて
誰かまたは何かから、命を授かった存在である。

そう。僕らは与えられた存在である。
人間として生きる命を与えられた。

この身体。目、耳、鼻、口、手、足、頭、脳。
自分の体や心。ものすごく精巧なるこの存在。

身体能力、成長の力、回復能力、知能、
感覚、感情などを備えたこの命。

この生命には寿命がある。約80年。とはいえ、
80年といえば大した時間である。約3万日。

太陽と月が約3万回ずつ
昇り沈むほどの時間である。

これだけの時間を生きる可能性を
命として授かったのでございます。

どんな世界に?
この広大で精細なる世界に。

青空や星空に広大さを感じ
山川草木に精細さを感じるこの世界。

自然の摂理が織り成すこの世界。
先人たちが築き上げてきた複雑高度な社会。

そんな世界に僕たちは生まれてきて
そして生きている。

生きていくなかで次第に、この世の仕組みや
成り立ちや意味、そして価値を体得する。

ものすごいものを与えられているという感覚。
ものすごい恵みを与えられているという感覚。

宮崎駿は言った。
「この世界は生きるに値する」

ヘミングウェイは言った。
「この世は素晴らしい。 戦う価値がある。」

生きていくなかで僕たちは、この世界を構築する一部となり
また次の命を与える側にもなりうる。

「生きる意味」は、生まれながらにあるものではなく、
与えられたこの世を生きる中で、自ら見つけていくものである。

死とは何か?
そもそも僕らは有限の時間を与えられた存在。

死とはその限られた時間が、
早かれ遅かれ、尽きるだけのこと。

願わくば、生を受けた恵みを十分に感じ尽くし
感謝とともに死んでゆきたい。

メルセデス・ソーサは歌った。
「人生よありがとう」

有限の時間を意識して生きること。
それがすなわち、メメント・モリ。

儚いもののかけがえのなさ。
有限だからこその尊さと美しさ。

自己とは何か?

僕が「月」だと思って見ているものは
実は「月」そのものではなくて

少なくとも月と太陽の地球との
関係性を通じて「月」を見ている。

------

僕が「あなた」だと思って見ているものは
実は「あなた」そのものではなくて

少なくとも「あなた」と「誰か」と「僕」との
関係性を通じて「あなた」を見ている。

------

「自己」とは何か?これも同じように
関係性を通じて認識できるものであるから

自己を築くということは、何かとの関係性を築くこと
ということになるのでしょうか。

美しいものに目を向けていたい

僕は美しいものに目を向けて
生きていきたいと願っています。

しかし、この世には、美しいもの、素晴らしいこと、
良い面、ステキなことがたくさんある一方で

醜いもの、辛いこと、酷いこと、悲しいこと、
悪い面、つまらないものごとも、たくさんあります。

一人の人の中にも、美しい面もあれば、
そうではない面だってあります。

そんな中、美しいものだけに目を向けて生きるというのは
現実を直視していないのではないか!?

という疑念も生じてきますが、
それでも、僕は次のように考えます。

まずは、美しいものや素晴らしいものごとに
たくさん触れることが、大切であると。

IMG_2423.jpg

美しいものや心にたくさん触れることを通じて
「この世は生きるに値する素晴らしい世界だ」

という実感が
心の中に育つからです。

「世の中は素晴らしいんだ」と実感できれば
多少の問題とか辛さとか、理不尽さとかがあったとしても

それでも素晴らしいよ、この世界に生きることは!
と前向きに進むことだって可能です。

でも、この世の美しさ素晴らしさを実感せずに、
辛い面や悪い面ばかりを見ているとですね、

問題に直面したときに、自分を励ます支えがなくて
心が折れてしまうでしょう、きっと。

なので、美しいものごと、素晴らしいものごとを
積極的に見出していこうとする姿勢は大切だと考えています。

ちなみに僕が特に、何に対して
美しさを感じるのかといいますと、

自然と人間のたおやかな営みの継続性とか
多様な生命が豊かな自然の中で共生している姿に触れたときとか

人々が心の中に秘めて持っている、高潔な意思に
触れたり感じたりした瞬間とかです。

押し寄せる不安の波と闘う方法(僕の場合)(2)

不安と闘うシリーズ2回目。
自分を励ますために書いてます!

---

(4)不安の根っこに、くさびを入れる

昨日は、不安に襲われたときに、まずは、
自分の気持ちを、なんとか保つ方法を書きましたが

やはり不安の根っこ、原因に、
まっすぐ向き合う必要がある。

困難で逃げ出したくなりますけれども。
特に最初の一撃を繰り出すまでが。

でも、ともかく、不安という大きな樹の根っこに、
斧を振りかざして、ターンッ!と切り込みを入れる。

まずは、一回、ともかく切り込んでみる。
一気には、樹は倒れないかもしれないけど。

でも、ともかくやってみたら、大きいと思ってた不安の樹が
実はそれほど太くなかったり、柔らかかったりで

意外にもあっさりと
倒すことができることもある。

こうやって、乱立する不安の樹々に
次々と切り込みを入れていくことで

まやかしの不安の樹は伐採できていき、
本当に腰を据えて闘うべき不安の樹が明確になってくる。

大きな樹は一撃では倒せない。
いろんな方向から、少しずつ斧を入れていく。

最初のころは全然、
歯が立たないように思えても

格闘しているうちにだんだんと
樹の太さや堅さが、わかってきて

切り込みも深く深くなっていく。
こっちからの切り込みと、あっちからの切り込みが

最後にはつながって、そしてついには
大きかった不安の樹を倒すことができる。

そんな風に解決することをイメージしながら
今日もやっていきましょうね。と自分を励ます。

---

昨日は不安を「波」に例えていたのに、
今日は不安を「樹」に例えることに変えたので

わけわからなかったかもしれませんね。
すみません。


押し寄せる不安の波と闘う方法(僕の場合)(1)

押し寄せる不安の波また波を、いかにかわして、
平穏な心の状態で、様々なことに取り組むことができるか。

それはとても
大切なことである。

正解は無いながらも、もがきながら発見してきた
不安を和らげる、ささやかな、いくつかのアイデア。

不安という名の波を華麗に乗りこなす
波乗りジョニーになれたらいいな!

しかし現実は
溺れる寸前ですが(笑)

------

(1)不安を認める

自分が今、不安な気持ちを抱えていることを自分で認める。
原因は、これや、あれで、確かに僕は今、不安を感じていると認める。

例えば、3月末までにやらなければならない仕事がたくさんあって、
とても終わりそうにないな。

その中でも、具体的に、あれと、これの、あの部分が
かなり、不安なんだなぁ。みたいな感じ。

そのことで僕は、とても不安を抱えているんだなぁ。
と認める。できれば、独り言で、口に出して言ってみる。

ああ!この状況ならば、それは、不安を抱えるのも当然だわ!
仕方ないね。そりゃ不安も感じるさ!と認める。

認めることで、不安の所在が明らかになり
少し心が軽くなることがある。

------

(2)手を動かす

頭だけであれこれ考えていると、妄想で悪い方向へ、悪い方向へと
考えが向かってしまうことがあります。

眠ろうと思っても、眠れなくて、
頭でぐるぐる考えが回っているときもそうです。

そんなときは、考えるのをあきらめて、
手を動かすことで、救われることがよくある。

例えば、掃除をするとか。洗い物をするとか。
爪が伸びていれば、爪を切るとか。

歯を磨くとか。日記をつけるとか。
鶴を折るとか。ブログの記事を書くとか。

米を砥いで炊飯器にセットするとか。
ごみを捨てるとか。

とにかく「一歩前進」となる、簡単で、しかも
具体的な何かを、手を動かしてやる。

そうやって、一つ何かが前に進むと、
不安の気持ちが少しおさまって、次の一歩も踏み出しやすくなる。

どうせ不安で眠れないんだったら、
やらねばならぬことを、一気にやってしまおう!

みたいな発想で。身辺の身繕いが整うと
不安な気持ちが少し解消する。

------

(3)歌う

自分の声が自分で聴こえるぐらいの大きさで
好きな曲を歌ってみる。

自分の歌声を「ちゃんと聴く」
ということに集中しながら歌う。

可能ならば、手や足でリズムを刻みながら歌う。
やや難易度の高い曲にもチャレンジしてみる。

そのうちに、いつの間にか気分が良くなってきて
不安を一時的に忘れるか、不安を不安と感じない気分になれる(ことがある)

僕たちが「一週間」と呼んでいるものの正体はなんなのか?

ということについて考えてみました。

------

(Q1)なぜ1週間は5日とか10日ではなく、7日なのか?

この起源には、諸説あるようです。
明確にどの説が正しいかという答えは分かりませんでした。

------

(Q2)世界にある多くの国、どこも1週間が7日なのか?

かなり多くの国が、7日制を採用しているようです。
曜日から見る世界に詳しく掲載されています。

7日制を採っていても、7日制になった時期や由来は
地域や国ごとに違っているのが面白いです。

------

(Q3)日本では昔から1週間は7日なのか?

いいえ。日本が7日制になったのは
明治9年からだそうです。

それまで(江戸時代~明治初期)は、一の日と六の日、
つまり1日、6日、11日、16日、21日、26日が休日だったそうです。

明治政府が「明治9年太政官達27号」にて
官立学校の休日や、一般官庁の休日を

それまでの日付に基づく休日から
曜日に基づく休日へと変更したそうです。

学校は、週に1回、日曜日が休み。
官庁は、週に1回、日曜日が休み。土曜日が半どん。

------

ここまで調べてきて
感じたことは以下のとおり。

日々の生活に重要な休日と平日の区別が、
法律によってこのように決められたことによって、

一週間の概念は、おそらく日本人の間に
急速に浸透していったのではないかなぁと推測します。

単なる日数のまとまりとしての周期ならば、
例えば六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)もあるし

七曜の概念も平安時代にはすでにあったといいます。
でも、一般庶民にまではあまり浸透していなかったようです。

休日か平日かを決める日数の周期が7日に決められ、
それが既存の「七曜」に当てはめられて制定され、一般庶民に普及することで

「一週間」という概念が広く日本人へと広がった。
これが「一週間」の正体なのではないでしょうか?

ということに思い至りました。
いかがですか?

「そんなのあたりまえじゃん」または
「何が言いたいのかわからない」

という声が聞こえてきそうです。すみません。
言いたいポイントを、表現しきれていないと思います。

伝わらない

会議のような場において
頑張って自分の意見を発言してみたものの

内容ががきちんと伝わらないどころか
意図と真逆にとられることもよくあり

難しいなぁと思う
今日このごろです

「それ良いね」と伝えたいのに
「それ悪いね」と伝わることもしばしば

なぜに?

発言のとき、内容だけでなく、発言の意図も
もっと明確にした方がよいのかな

そもそも発音すらも明確ではない可能性もあり
もっとはっきり大きな声で明確に述べねばなるまいか

反省

言葉は大切な道具のみならず、僕自身である。

言葉を大切にしたい。
なぜならば

言葉は僕を形作りもし、
言葉は僕を支配もする。

日々様々なことを考える。
思考。思考は言葉である。

人間にとって、心や精神は大切である。
精神を支えるのが、思考や、思考を下支えする言葉たち。

心や精神は、僕自身の大切な一部である。
だからそれを支える言葉も

単に大切な道具であることを超越し
僕自身の大切な構成要素の一つである。

------

人と会う。会話する。
会話も言葉である。

対面のコミュニケーションには
ノンバーバルな要素も多い。それでも言葉は重要。

手紙や電話。
メールやブログやSNS。

これらは対面よりもさらに、
言葉の大切さが増す。

言葉は人と人とのお付き合いの
基礎も提供している。

------

本を読む。先人たちの知恵や経験の結晶は
言葉を通じ、時間や空間を越えて伝えられる。

------

歌を歌う♪ 歌を聴く♪
言葉が音楽にのったとき

簡潔な言葉が、心の奥深くに
響くことがある。不思議な力。

------

じゃあ「言葉を大切にする」って
どういうこと?

知らない言葉に出会ったら調べること。
言葉の意味を正しく知ろうとつとめること。

ふさわしい言葉を探す努力を続けること。
言葉をたくさん覚えていくこと。

言葉の微妙な意味合いを知ること。
似たような言葉のわずかな違いを理解すること。

まやかしの言葉を使わないこと。
不適切な言葉を適切な言葉へと少しずつ置き換えていくこと。

あっ、でもまず始めは間違ってもいいから
とにかく何か表現したいことを、なんとか言葉にしようと努力すること。

------

そういうことなのかな?
言葉の修行は奥が深い。

奥が深いけど楽しいし面白いし
価値あることだと思う。

言葉を丹念に磨き続けていけば、きっと
言葉は宝石よりも輝きだすでしょう。



夢は「育てる」ものなのですね

ずっと夢は「持つ」ものであり
「叶える」ものだと思ってきた。

でも最近になって、夢って
「育てる」ものだということに気づきました。

夢を「持つ」ものだとイメージするか
「育てる」ものだとイメージするかによって

夢との付き合い方が
全然違ってくるじゃないか!と思います。

例えば植物のイメージだと
土を整えて、種をまいて、

毎日水をやって、芽が生えたら喜んで
時には風から守って、葉が茂っていくのを喜んで

実が成って摘み取って
ありがとう!みたいな。

そんな風に夢を小さな種から
育てていくイメージならば

夢と上手に付き合っていける
ような気がします。

自分の心の中にある、小さな種に気づいて
それを育てようと少しずつ水をあげていけばいいのですからね。

もし育たなくても、生き物だから死んじゃうこともある。
また別の種を育てればいい。

最初から大きな夢を「持たなきゃ!」と考えると
そんな壮大な夢なんて、僕の中にはないよ!と

最初の段階でつまずいていた僕には
「育てる」ものだという認識は画期的かもなぁと思いました。

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